結局読んだあと内容忘れるし

???
ミステリ小説のジレンマ。

アホになってみよう

ミステリ小説を読む人の中には、結末を推理する、犯人を推理するのが醍醐味という向きもあると思う。

が、ぼくは、なるべく思考を停止させるというか、アホになろうと思っている。実際なっている。元からアホな可能性もある。

要するに、先読みしたくないのである。
こいつ犯人じゃね?→やっぱりな
これを味わいたくないのである。

これはミステリを読めば読むほどたっぷりとつきまとってくる問題で、特に叙述系(作者から読者へ文章構造によって仕掛けられる、ストーリーの外で行われる仕掛け)はパターンが見えてきやすい。
例えば、探偵の目線で書かれていると思ったら別人だったとか、犯人の目線で書かれていると思ったら別人だったとか、男だと思ったら女だったとか、そういうやつである。

このタイプは「何かおかしいな」と引っかかるポイントが用意されているケースが多い。つまり、伏線だ。
例えば男だと誤認するように書かれていた人物が『手首の内側を見て時間を確認した』みたいな描写により「あれ? 男なのに内側に時計?」とかね。あとから考えたら女だと暗に示してたのかーってね。
作者だってプロだからこんなふうに露骨なものではなく、よく考えると違和感がある、という絶妙でギリギリなヒントを提示している(作中のトリックではないから別に提示する義務はないと思うが、美意識の問題と言えるだろう)。

この騙される経験の蓄積が、パターンを勝手に絞り込み、結末を先読みしようとする。あまりよろしくない。

ぼくにとっては
「やっぱり読みどおりだった!」
よりも
「うわー騙された!」
のほうが快感である。

ゾンビ映画のケース

ゾンビ映画好きの人が水曜日のダウンタウンで言っていたのだが、ソンビが登場するシーンには法則があるという。
登場人物が鏡を見ている場面では高確率で後ろに立っているとか、なぜかゾンビに追われている奴は転ぶので、全力疾走をしないゾンビでも追いついて襲えるとか。
確かにそんなシーン観たことあるなと納得できるものだった。ゾンビって走らんよな、うん。

ゾンビ映画フリークはもはやそんなステレオタイプなゾンビのルールをいかに利用しながら作品にするか、もしくはルールを飛び越えるかを楽しみに観るのだという。

すげー。
もはや俯瞰で観てるのか。

でもミステリって叙述の名作でもう露骨に強いのがあるから、それをやると得てしてバカミスになっちゃうんだよなあ。
実は全員宇宙人でした。みたいな……いやそんなんあるか知らんけど。

オフィシャルにネタバレすな

というわけで、なるべくアホになって作品に臨みたいのだ。
もっというと叙述系だろうとそうでなかろうと、「あなたも騙される、ラスト一行のどんでん返し」みたいな予備知識を得ずに読みたい。どんな話なのかまるでわからずに読みたい。

過去の話。
先輩にO氏の某『NとHとmy S』という小説を貸し「面白かったですか?」と訊いたところ

「面白かったけど、裏表紙に7日間の冒険って書いてあったから、7日間は無事なんだって先に分かっちゃって、危ないシーンもひやひやしなかった」

と言われたのである。

あーアホでよかった。ぼくはそんなの気づかずに読めましたから。アホ、得。
この一件以来、なるべく情報を遮断することを意識するようになった。

コスパがよかったので星5で

が、結局、情報を遮断してなかった時もナチュラルに読んでいたのだから、そもそもアホなのである。
アホは時としてコスパがいい。

人が何を言っているのか理解できないほどではないが、先読みできるほどでもないアホ。
これが一番快適なアホだ。