1を伝える100の方法

文章評価
文章の味について。

思考を文字にすること

言うなり書くなり、自分が思っていることを他人に伝えようとする時に、その伝達率はどうしても100パーセントにならない。
どこかで思っていたニュアンスと違う伝わり方になってしまうし、どう頑張っても、他人と完全に思考を共有することはきっとできない。

それでもぼくたちはコミュニケーションをとるし、文章をつむぐ。

その不完全な伝達が、面白さにもつながるような気がしている。
正解がないのだから、逆に様々な手法が考えられる、とも捉えられる。

ぼくの文章

ぼくはこのブログでもGSSMBOYの逆襲でも原則文章を常体で書いている。

その理由のひとつは、

『彼は眠れずベッドに腰かけていた。時折、意味もなく時計を見た。彼だけが夜に取り残されている。』
『彼は眠れずベッドに腰かけていました。時折、意味もなく時計を見ました。彼だけが夜に取り残されているのです。』

物理的に常体の方が文字数が少なくて済むということ。
これが一番大きいかな。
要するに書き手にも読み手にも負荷が減る。

まあそれは不遜だとか居丈高だとかそんな印象にもつながりかねないのだけれど、ま、キャラってことでいい。

でも基本的に自分の書いた文章は常に不満があるんだな。
ひとつのセンテンスが長すぎる。もっとスマートに書けないものか、とか。
展開が上手く説明できていないから文章だけで画が見えない。もっと微細に描写できないものか、とか。

そういうのもあって、ブログを読み返すっていう作業が好きではないのだ。
単純に過去の自分を改めて見つめるっていうのが気恥ずかしいっていうのも強いけど。

もっと芳醇な文章を書けるようになりたい。

色々な作家の例

ぼくが知っている作家で印象的な文体を持っている人を紹介する。

森博嗣の文章

大きな特徴として単語の最後に来る長音符号がほとんど使われないというものがある。
カタカナ語、外来語に多い。
メジャー→メジャ
マイナー→マイナ
といった具合だ。

これだけだと癖のひとつとしてそこまで印象に残らないかもしれない。

『ついに戦いは始まってしまったのだ。彼は悲しそうな顔をしたが、覚悟を決めると地面を蹴った。』
『戦いが始まった。彼は一瞬俯き、覚悟を決めると地面を蹴った。』

一人称視点で進む物語ではない場合、第三者、つまり作者の書いている文章の熱量というものがある。

始まって「しまった」とか、「悲しそうな」とかは作者による描写で、そういうものを排除すると無機質な雰囲気が出てくる。

森博嗣の文章は割と無機質で淡々としていて、それに加え長音符号を排除することで、さらに温度の低さが演出されている。

樋口有介の文章

『彼は走った。途中、何度も転んだ。その都度立ち上がった。痛みは感じていなかった。』
『彼は走る。途中、何度も転ぶ。その都度立ち上がる。痛みは感じていない。』

小説の地の文は過去形がよく使われる。
しかし、樋口有介は現在形で書いている割合がかなり多い。

現在形で書くと躍動感、リズム感のようなものが生まれる。
回想で書かれるのではなく、文字通りリアルタイムに進行しているような感覚になる。

文章のリズムは大事で、これは対面での会話でも同じだろう。
同じ内容を話すにも話し手によってそれは変わってくる。落語なんかをイメージすると分かりやすいかな。

乙一の文章

『いつになっても、僕は相変わらず惨めで情けない生活を続けていた。』
『いつになっても、ぼくはあいかわらずみじめで情けない生活を続けていた。』

乙一はいくつもの顔を使い分けている作家なので特徴を限定するのは難しいが、まず森博嗣のような地の文の温度の低さがある。
残酷なシーンでもあまり感情を交えず、煽らず、淡々と人が死にゆくさまを書いたりする。

に、加えて、ひらがなが多い。時期によってそうでない時もあるが(ZOOとかその辺はひらがなの多さは感じない。複数の名前を使用するようになった頃くらいからかな)。

やっぱり基本的には温度は低いのだが、本来漢字でもいいだろうところをひらがなのままにしておくことで、柔らかさが生まれ、不思議な感触を産んでいる。
森博嗣が無機質に拍車をかける書き方だとすれば、逆に乙一はそこにまるで異なる味を加えて新しい雰囲気を作り出している。

理想

第一線で活躍している作家たちと自分を並列に語るのはおこがましいけれど、ぼくも文章を書くことは好きだから、自分の色を自然に出せるようになりたい。
引き込まれる文章というかさ。

ここまで約2000字、書いては細かく直して、ってのを繰り返しているわけだけれど、それでもやっぱりあとから見直すと「なんじゃこりゃ」ってなることが多いわけで、日本語って難しいね。