お笑い芸人って格好いい

サンパチマイク
お笑い芸人に憧れがある。

お笑い芸人の美学

ぼくは面白い人(この面白いにもいろいろ種類があるが、中でもとりわけ笑わせてくれる人、ユーモアに長けた人のことである)が好きだ。
ただ、面白い人とお笑い芸人を職業にする人の間には大きな隔たりがあると思っている。
あくまで「思っている」なのは、お笑い芸人が身近にいないため思考がよく分からないからである。

#4【Aマッソのゲラニチョビ】「デシベル」 - YouTube

Aマッソのネット配信番組内で、加納が着衣のまま池に侵入していくシーンがある。
しかもそれは、フリがあってやるわけではなく、そこまで笑いにつながるわけでもなく、尺も短く、そしてその後たんたんと終わってしまう。

ぼくはそこに美学を見た。

キャッチをするよしもと芸人

芸人が身近にいないと書いたが、ぼくが大学を卒業した直後もといやめた直後、よしもとに所属する売れない芸人と同じバイト先になったことがあった。

今考えてみると、という程度でしかないのだけれど、やはり面白いを仕事にしようと志している人はそこに矜持を持っていたと言える。
居酒屋のキャッチをやっていた。
キャッチというのは、暇な時間帯が多い。
いや、暇な時間帯が多いというか、働く気にならなければ延々と暇である。
ぼくのいた店は基本給というものがなく、お客さんを捕まえてそのお客さんの会計の15~20%が給料になるという感じだったので、どでかい団体を捕まえた日などは、お金のなさそうな2人組などどうでもよく道端でたばこを吸っているだけだったりする。

で、そういう時に何をしているかと言えば、
ぼく「あの看板の男が何を言ってるか大喜利やりましょう」
よしもと先輩「いいよー」
みたいな具合である。

決して「やらない」なんて言わない。
ブラジル人にサッカーボール、芸人に大喜利である。

人間である前に

人を笑わせるために、自分が泣く夜もある。
というのはM-1のあとにぼくが思いついたレトリックであるが、たぶん似たようなものが100年前くらいから言われていると思う。

「面白い」に全力であるというのはなぜ格好よく見えるのだろう。

千原ジュニアが「人間である前に芸人であれ」と酔って言い、その後家にバラエティが押しかけてきそうになって「俺芸人である前に人間やねん」と笑いをとっていた。
Aマッソ加納が池に入っていくシーンはその「人間である前に芸人である」本分を垣間見たのかもしれない。

人間である前に芸人、これくらい突き抜けていたらなんでもかっこいいのかな。

人間である前にフットボーラー。
ああいい感じだ。

人間である前にランナー。
なんかいろいろ考察できそう。

人間である前にデザイナー。
意味はよく分からないが世界を股にかけそう。

人間である前にサラリーマン。
エリート社畜

人間である前にブロガー。
いや人間であれ。

サゲ

本当はもっと面白いっていうことへの憧れを具体例を出しながら書きたかったんだけど、数値化可視化できないものについて深く掘り下げるのって難しいね。