勝負にすらならない

ステータス
なりたくてもなれない。

演出

ステータスをめちゃくちゃ尖った配置にしてる人に憧れがある。配置にしているというか、なってしまったというか。
それは、天才ともいう。

なんでもそつなく70点をとれて、みんなから愛される人間より、めちゃくちゃで社会性がないが音楽だけは真摯な人間、みたいなほうがかっこいい。
もちろん生きやすいのは前者なんだけど。

劇団ひとりが「人から天才だと思われたくて、人が多く集まるパーティーのさ中、ふらっと一人で夜風に当たりに行く。孤独を愛してる感じを人にわざと見せつける」という話をしていたのだが、結構わかる。
実際は芸能人で一線で活躍しているのはどう考えても才能のある人間だから(天才という呼び方が適切かは置いといて)、比較するのもあれだけれど、シンプルに『普通の人』と思われたくないなとは思う。

普通

いや、普通も結構大変なことだとは思うんだ。
当たり前のことを当たり前にできる人間がいるからこそ、世の中はうまく回っている。
ただ、そこをめがけていくかというと違う。小学生の将来の夢に誰もサラリーマンなんて書かない(最近はどうなのか知らないけど)のと同じである。

だから自分の興味ある分野でもそうでなくても、個人の適正にしっかりあった仕事についている人は尊敬する。
たとえば中学生の頃から「料理を学びたい」と言っていた友達は専門を出るとそのまま銀座のレストランのシェフになり、ぼくは大学でぼんやりした日々を過ごしてたから「あいつ中学生の頃に自分の夢見つけてもう叶えてるとかやべえな」と思ったものだ。

ただそういうのは憧れとは対極にあって、夢と現実の現実の方だ。
現実は重要だが、それは同時に見たくないものであったりする。

半端

普通になるにはちょっと変だが、変な方に振り切れているかと言われれば常識的であり、ぼくは実に中途半端な人間だ。

届かない才能を目の当たりにすると、関心と同時に悔しくもなる。

最近で言うと森博嗣の『女王の百年密室』という本を読み(この感想はまた別の機会に書きたいと思っている)、そのスケールと世界観で久々にページを繰る手が止まらないという感動を味わった。
と同時に、よくわからない箇所も多かったのでネットでレビューを検索した。

そこで、衝撃的な文言を発見した。

森博嗣は、いつもプロットもトリックも考えずに書き出して、『あとから何とかなるから大丈夫』と公言している」というのだ。

ええーーー!!!!!!
と思うと同時に「あ、まあ、でも、トリックなんだこれみたいのもちょいちょいあるし、わからないでもないか」とも思う。
でも、『すべてがFになる』とか、行き当たりばったりで書いてたら絶対構築不可能だろとも思う。
「いつも」というのがどのくらいいつもなのかは分からないし、綿密にトリックを作り上げているケースもあるのかもしれない。でも、まあ、「敵わないなあ」と思うには充分だった。

まあ、とある人のブログにその森博嗣の言葉は紹介されていたわけだが、公式なソースは見つからなかった。
だから、本当に言ったのかは分からない。でも言ったような気はする。

敵わないなあ。

三流

いいじゃないか…!三流で…!
熱い三流なら上等よ……!

というわけで、まあ、普通の人間なりに楽しく生きる方法を探すわけ。毎日。

色んな事に手を出して、飽きたらやめる。
いいか、それで。