スウィング知らなけりゃ意味ないね

しじみの味噌汁
知識と思考の制約。

しじみ

一流の店はしじみの味噌汁を作る際に、出汁をとったしじみは身が硬くなってしまうので捨て、食べる用のしじみは別に湯がいて入れる。
という話を『頭の体操』という本で読んだ。正確に言うと「どうすれば柔らかい身のしじみの味噌汁を作れるか?」というクイズになっていた。

その知識が頭に入ってから、しじみの味噌汁と対峙するたびに「この身は食べるべきか食べないべきか」という問題と戦う羽目になった。
基本的には出汁のために存在しているから、食べるためのものではない。
が、一流のしじみの味噌汁の場合は、そこからさらにひと手間加え、食べるためのしじみが用意されている。

今、ぼくの目の前にあるしじみはどっちなのか。

まあどう考えても一流のしじみの味噌汁がぼくの目の前にあるケースは稀で、もしかすると一度もお目にかかったことがないのかもしれない。
しかし知識がよぎってしまうのだ。たとえインスタントの味噌汁でも。

基本的には食べ物は残さないという理念があるし(好き嫌いは多くとも)、食べるためではないしじみがそもそももったいないと思ってしまうのだ。
そんなこんなで、ぼくにとってしじみはいつも葛藤とともにある。

知識が余計なことを考えさせるケースは少なくない。

ちなみに、一般的なしじみの味噌汁の身を食べた時に、「硬い」という印象をもった記憶が、そもそもないと思う。

マナー

バラエティ番組で「意外と知らないマナー講座」とかをやっていたりするが、ああいうのを観るたびに思う。
過半数が知らないマナーだとしたら、もはやそれに則る方が空気の読めないやつになるのではないかと。

お堅い席で、一挙手一投足に細心の注意を払うような場面で、日本人の3割しか把握していないマナーを用いるかどうか。
偉そうに目の前に座っている重鎮は、その3割の人間なのかどうか。

余計な知識が余計な思考を産んで、結局他のところでぼろが出て減点を食らう、なんて結果は想像に易い。

だったらもうそんな知識いらないし、根本的に意外と知られていないマナーなんてものがこの世に必要ないのだと思う。

しじみをひとつひとつ、ちまちまと貝から外して食べていくのは、マナー的にはどうなのだろう。
調べないでおこう。

ジャズ

音楽のジャンルのひとつ、ジャズ。
ジャズは楽典的なギリギリを攻める面白さがある。

本来だったら不協和音になりそうな音が、ぎりぎり許されるアプローチをあえて狙ったりする感じ(身近なところで言うと、aikoの曲ですごく中途半端な音階が出てきて、「不思議な響きだ」と感じても音楽的に破綻しているとは感じない、あの感じに近い)。

ぼくも音楽をやっていた人間なので、一応楽典に触れたことはある。
ロック畑の人間はそんなのどうでもいいからフィーリングでやろうぜ、という向きもある。
そこでわかったのは、中途半端に楽典に触れるくらいならば、ハナからやらない方がいいということである。

結局ぼくは必要最低限の知識を得てもうこれでいいかなと思った。

スケール(音階)。
ドレミファソラシドが一番オーソドックスだが、たとえばドミファソシドの5音は琉球音階と言われ、明るく沖縄っぽい。
こんな感じの曲ではこのスケールが合うというパターンがあって、ジャズは即興でさまざまなコード進行の中にさまざまなスケールをぶちこんでお互いの創意工夫をぶつけあうような音楽なのである。

ぼくにジャズは無理だった。
やっぱり「とにかくでかい音を出せ! それがロックンロールだ!」というタイプの人間だった。
半端に知識を得たら自分のプレイヤーとしての感覚が変に変わってしまったと思うし、必要十分のところで打ち止めにしたのは正解だと思っている。

まあ、死ぬまでに、本気でジャズをプレイしたいと思ったらまた勉強するかもしれない。

キメ

こういうことを人に話すと「余計なことをいちいち考えるんだね」みたいな感想を持たれる。
ぼくからすると余計なことではなく、めちゃくちゃ普通のことなんだけれど、それなりの期間生きてきたので自分の方がちょっと変なのだろうと結論は出ている。

でもやっぱ考えちゃうんだよね。
何考えてるかわかんない人間って天才っぽくてかっこいいけど、ぼくはあれこれ考えてるの出ちゃってる人間だから、なんかなー。キマらねー。