打つがいつか書くにとって変わるのだろうか

書く
国語の成績はあまりよくなかった。

習慣

人間というのは、どこかで飽きる生き物なのだと思う。
飽きることと、諦めることは似ている。

単純に興味を失ったり、自分の実力の限界を知ったり、経緯は様々でも結果としてはどちらも頓挫にいきつく。

どちらも身に覚えがありながら、なんだかんだで4年だか5年だかブログを書き続けている(書いている量が、書くことへの意欲と直結していると見て、概ね間違ってはいないから、アーカイブを見て明らかに書きまくっている月と全然書いていない月との対比がわかる)。
もっと言えば、バンドをやっていた頃毎日のようにブログを更新していたし、何かを書くことは二十歳くらいから恒常的に行っていることになる。

それでも、今なお文章を書き始める際に、どんな風に書くか逡巡している。
むしろ、昔より今のほうが考えて書いている節もある。

その変化は成長なのか退化なのかはわからない。

忘却

昔は、思いついたことをより勢いに任せて書いていた気がする。
周りから見て大きな違いはなくとも、昨日の自分と今日の自分が考えていることが全く違ったりする。その意識と直結しているのが書くことないし意見を表明することだから、昔の自分がどういう経緯でどんな文章を書いたのかあまり思い出せない。思い出そうとも思わない。

だから、昔書いたものを読み返すのは基本的に苦痛だ。

というのは前置きで、今ここに書いているのは今のぼくが考えていることであり、昨日や明日はもう違うことを考えているという注意書きである。

さて文章を書く際の思考を文字におこしてみる。
そもそも、このエントリ自体、他のことについて書こうとしていたがなかなか頭の中で整理ができないことから「整理ができないことについて先に書くか」となったものなのだ。

混沌

書こうと思うときはまず主要なトピックがある。
ジーンズを洗濯したとか、新しい服を買ったとか、そんな感じ。

定期的に更新されているジーンズ色落ち記録のようなものはテンプレがあり、着用頻度、写真、感想、決まったものを書いていくからそんなに苦労しない。

「これってなんだか気になるなあ」
みたいなちょっとした違和感、たとえばナイキとアディダスのロゴ物を一緒に着るのってどうなのよ? などをひとつの記事にまとめるのは結構大変だ。

なんなら誰かと口頭でディスカッションしたほうが効率よく意見をまとめられると思う。
矛盾点や疑問点を人から指摘されることで、気付くことは多い。

最初はせいぜい「これ、いいよね」とか「これ、おかしくない?」とかその程度しか考えていないから、なぜいいのか、なぜおかしいのかはあとから出来上がる。
これがこうなって、こうなって、だからこういう結論。ではない。
結論が先にあって、なんで? をあとからやっているから、経過が間違っていてもひとりでは気付きにくいのである。

飽和

そんな自問自答を脳内で繰り返す。
ざっくりとした思考の断片を、どうやってつないでいくのか帳尻合わせをし、1500〜2000字くらいのひとつのエントリが出来上がる。
もっと長いこともよくある。その際は削ったり削らなかったりする。
読み返して、誤字や脱字を確認したり、前後関係を修正したり、ちょっと手を加える。
それでも次の日になれば「もっとこうした方がよいのでは」と思ったりして、また少し書き直す。

そうして、時間をかけて、「こうした方がよいのでは」がオーバードライブして、飽きて、諦める。
最終的にはどうでもよくなり、過去の自分が書いたものに興味を失う。

その集積がブログだ。
少なくともぼくの場合は、そうだ。

つまり、このエントリも、明日になればぼくの中での価値は少し下がる。

他人

たまに何年も前に書いたエントリに言及してくださる方がいらっしゃるのだが、当の本人が「こんなこと書いたっけ」と他人事なので、適切な反応が難しい。
読んでいただいてありがとうございます、くらいでいいだろうか。